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教会の歴史

カトリック福山教会の黎明期

~ 東町教会時代 ~

1941年(昭和16年)初め、福山市東町字中1632番地(現在の東町1丁目2‐2)の借家に、カトリック教会が生まれた。
国鉄山陽線の南下、白川別荘の北隣、角屋敷12坪5合・平屋建て・玄関3畳・奥6畳・台所トイレ付、家主は西隣に居住する花木静山先生(吟詠詩園流・やまと舞・総本部静山会会長)であった。
少しさかのぼって、1940年(昭和15年)12月、ドイツ人でイエズス会のフランシスコ・マイエル神父様と伝道師篠原顧六先生(明治30年生まれ)が、福山駅に下車し、しばらく外に立っていた。そこに福山市御船町の大塚恒市さん(明治34年生まれ)が偶然居合わせ、初対面のマイエル神父と篠原伝道師に「あなたたちはどこに行かれるのですか」と尋ねた。すると二人は「福山にカトリック教会を設けたいが、どこかに借家はないか探しに来たのです」と答えた。いろいろ話をしているうちに、篠原伝道師は、熊野の人で誠之館の卒業生であること、大塚さんも、その4年後輩の誠之館の卒業生だということが分かった。更に大塚さんは「自分の友人で詩吟の先生をしていて、誠之館の卒業生である花木さんという人が借家を持っているように思うから、案内しましょう」と言って、二人を連れて直ちに東町の花木静山さん宅を訪問した。面談後、花木さんは自分の家の東隣の木造平屋建ての家を教会として貸すことを快諾した。賃貸人は篠原伝道師ということで契約が成立した。家賃は1か月5円であった。こうして1941年1月に東町にカトリック教会が誕生したのである。
マイエル神父と篠原伝道師は、教会の6畳の間に祭壇を設け、そこでミサを立て、信徒に公共要理を教えた。マイエル神父の霊名は、フランシスコ・ザビエルであった。400年前に日本に渡来したザビエルの霊的気概を持ってこの地方の伝道を始められた。当初、マイエル神父は「福山は、明治初年長崎からキリシタンが流配された記念すべき土地でもあるから、是非ここに教会をたてたかった」とも言われていた。
東町教会は創設されたが、最初の2年間賄い人は居らず、マイエル神父は自分で小麦粉を練ってパンを作り、篠原伝道師は米を炊いて和食を食するという具合で、時には一緒にキュウリや大根をかじるなどして生活していた。
1943年(昭和18年)になって、呉から信者の大木義子さんが助手として来福し、大塚恒市さんの家に同居して、東町教会に通い、マイエル神父と教会のお世話をして働いた。大塚さんの妻富子さんは、マイエル神父や篠原伝道師から1年間公共要理を勉強した後、1943年10月に洗礼を受けた。(現在の洗礼台帳による洗礼第2号、第1号は1942年7月に洗礼を受けた長島総一郎さん)
東町時代、いつも教会に出入りしていた信者は、平間良子(女医)、井上農冨雄先生夫妻、今岡留男夫妻、大塚富子、大塚淳(富子の長男)、中川照子、塩谷夫人(府中の人)、山田初枝、石井重子等の人々であった。
そのころの日本は、1931年(昭和6年)9月に起こった満州事変から1937年(昭和12年)の日華事変、1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争と、いわゆる15年戦争の最中で、軍部の独裁下にあり、皇国史観に最も支配された時代であった。そのため、キリスト教、特に外国人の神父や修道士・修道女に対する思想弾圧は非常に厳しく、東町の教会にも憲兵や特高が始終出入りし、花木さんに対して、マイエル神父の動静を尋問することが度々あった。花木さんは、「自分は信者でないから知らない」と答えていた。マイエル神父も篠原伝道師も憲兵隊にたびたび呼び出しを受け、嫌がらせを言われた。
1945年(昭和20年)の終戦間際になると、マイエル神父は憲兵隊から「県下の神父たちは皆、帝釈峡に軟禁されているから、直ちにこの教会を去って帝釈に行け」と指令を受けた。マイエル神父は、「この教会には私の子ども(信徒)がたくさんいるので遠方には行きません」と最初は抵抗していたが、圧力がますます激しくなっていき、最後には折れて帝釈峡に行く決心をした。そこで、その年の8月初めのある日、信徒一同を教会に集めて、お別れの会を開いた。その時マイエル神父は目に涙をいっぱい浮かべて「大塚淳君と長島達也君は教会の植木に水を切らさないようにしてください。信者の皆さんは、ロザリオの祈りを欠かさないように」と悲壮な挨拶をした。
ところが、その直後、8月6日に広島に原子爆弾が投下され、8月8日に福山が焼夷弾による空襲を受け、8月9日には長崎にも原爆が落とされ、ついに8月15日、終戦の勅語が下り、15年戦争の敗戦が決定した。そのためマイエル神父の帝釈峡行きは自然消滅した。

~ 福山大空襲の夜 ~ (花木さんの話)

福山に米軍の爆撃機91機が襲来し、午後10時25分から11時35分まで焼夷弾を投下し続けた。東町町内会の防衛本部は、その夜11時20分に花木さんの家に来て「早く逃げなさい。我々はもう逃げます」と言った。花木さんは「どうぞ」と言って11時40分に別れた。その時、南隣の白川薬局の別荘から、火のついた丸太が飛んできて教会に火が移った。夜中12時頃、マイエル神父は教会横の溝から這い上がってきた。花木さんが「神父様、逃げますか」と聞いたら「まだがんばります」と答えた。午前1時頃になると、教会は火の海となったので、花木さんは「神父様もう逃げましょう」と言ったら、マイエル神父もやっとその気になり、祭具を詰め込んだ大きなトランク2個を自転車の荷台に積んで、花木さんと一緒に教会を出た。東小学校の方に逃げたが、途中トランクが何回か自転車から落ちた。落ちては積みを繰り返し、やっと東小の前まで来た。するとそこに憲兵と警察が立っており、マイエル神父を見ると「よう生きとったのう」と罵声を浴びせた。
午前2時、マイエル神父が東小学校の前で「私はこれから信者の前原さんの家に行きます」と言ったので、花木さんは「では気を付けてください。また会いましょう」と言って別れた。

~ 春日村への疎開から現在の教会の地へ ~

東町教会が焼け落ちた後、マイエル神父・大木義子さん・大塚夫妻・息子の淳さんの5人は、予め依頼しておいた深安郡春日村(現在の春日町)の羽原さんという人の家の物置(二階建て)に疎開した。5人は、その不自由な農村の一隅に約6か月間疎開したが、日曜日には必ずミサを立て、みんなでこれにあずかった。
また、マイエル神父は東町教会時代、絶えず憲兵隊に呼び出されていたので、焼け野原と化した明治町(現在の昭和町)の憲兵隊の跡地を発見し、毎日のようにそこに行って実地を調べていた。そのうちこの陸軍用地がGHQの支配下にあることを知り、急いで大津野村に進駐している米軍の司令官に会いに行き、英語で憲兵隊跡に教会を立てたいから認めてもらいたいということと、その準備のために簡単な建物を建ててほしいということを話し、交渉は成功した。それから間もなく進駐軍の兵隊の中の大工さんが、トラックに木材を満載にして憲兵隊跡地に来て、木造平屋建て6畳2室・台所・トイレのある家を建ててくれた。マイエル神父は大喜びで、春日村の疎開先からこの明治町の憲兵隊跡地に転居した。それで大木義子さんは、春日から憲兵隊跡地まで毎日通勤した。その後、この跡地に大木さんが入居する木造平屋建ての建物を建て、大木さんも春日村の疎開から約6か月後に移転した。これが現在のカトリック教会の基礎となった。春日での疎開生活は不便で困窮を極めたが、それは当時、市民みんなが体験した苦労であった。
あの大空襲で焼け野原になった陸軍憲兵隊跡にカトリック教会が建ち、東深津の陸軍演習場9万坪の内1万坪に、暁の星学院が建設されたのである。これこそ神の恵み以外のなにものでもない。

~ 伝道師久武シカ女史の伝道 ~(篠原伝道師、井上農冨雄先生の話)

東町教会が誕生する前、福山市東堀端町(現在の三之丸町)の小さな家で、貧困と闘いながら布教に献身した久武シカ伝道師のことを述べておきたい。女史の夫も伝道師であった。夫婦で布教に専念されたが、非常に貧しく借金ばかりで、本当に気の毒な状態であった。夫婦はその貧困の中で、借家に祭壇を設け、毎日曜日に、倉敷からクリセル神父、尾道からマイエル神父、時にはハマエル神父を招いてミサを捧げた。シカ女史はその後、夫が病気で帰天し、未亡人になったが、貧困にもめげず独立布教に献身し、80歳で帰天した。臨終には、マイエル神父、篠原伝道師が立ち会い葬儀と告別式が行われ、福山の共同墓地に埋葬された。久武シカ女史の墓には、当時木の墓標が立てられたが、その後墓参りする人もなく、墓標は朽ち果てて無くなってしまった。篠原伝道師は「ああ、これでよろしい」と言った。キリストも『われを信ずるものは死すとも生きる』と言っているように、女史の形は無くなっても、魂は復活し、他の先輩方と一緒に福山教会を見守っていることであろう。

カトリック福山教会のなつかしい写真

旧聖堂内部

旧聖堂内部

 呉教会主任司祭真田神父を迎えて堅信式(1945年)

呉教会主任司祭真田神父を迎えて堅信式(1945年)

昭和町の仮聖堂祝別式

昭和町の仮聖堂祝別式

東教会にて 篠原伝道師の送別会

東教会にて 篠原伝道師の送別会

東町教会の焼け跡に立つマイエル神父

東町教会の焼け跡に立つマイエル神父

旧聖堂献堂式

旧聖堂献堂式

空襲直後の福山駅

空襲直後の福山駅

備後地方におけるカトリックの歴史

年 代 事   項
1576 内藤ジョアン,鞆にいた足利義昭の許にいた
[日本史4 フロイス]
1597   1・17 26聖殉教者、神辺通過 [芸備キリシタン史料]
1615
(福島正則時代)
ジョアン・パプチスタ・ポレロ神父、播磨を活動の中心にし,備後にも巡回
[芸備キリシタン史料 1615年イエズス会年報]
1616 鞆でキリスト教式による盛大な葬儀が行われた
[芸備キリシタン史料 1616年イエズス会年報 ユーロス神父]
1624 全国にわたる大迫害の嵐も,備後には届かなかった。司祭はこの地で四旬節と復活祭にミサを捧げる機会を持った。
[芸備キリシタン史料 1624年イエズス会年報]
1640 ~ 1658 この約20年間に信徒が起訴され,逮捕されている
「福山より宗門23人,鞆より宗門一両人も出で申し候」
[契利斯督記・芸備キリシタン史料]
1690 鞆の信徒,宗信の次女妙空75歳で病死 [芸備キリシタン史料]
【その後1868年まで空白】
1868    7・20 浦上四番崩れで浦上の信徒114人が捕らえられ,その内20人が福山に送られてきた。その人たちは座床の倉庫に収容される
1870    12・12 浦上より男29人,女47人が新たに加えられる。福山城内の備後表を納める倉庫に収容される
1873    4 福山に流配されたキリシタン釈放。福山での死者は寺町大念寺,三吉村専故寺に葬られる。専故寺は福山藩の罪人として処刑された者を葬る寺であった
1886 山野教会(松尾谷天主堂)の献堂式がクザン司教を迎え盛大に行われる。式中聖堂内はひどい雨漏りであった。
山野教会で若林宣茂が受洗し,パリミッション会ムツ神父を助けて伝道師となり,辻説法などをしながら布教活動に尽力した
若林宣茂は福山の人で福山の受洗の第1号である。
1890 ムツ神父は福山に居を定め布教に従事する
ローラン神父も福山を巡回した
1895    9 ムツ神父病状悪化し,山口に移る
1895 パリミッション会ファジェ神父により福山教会を設立。ファジェ神父によって設立された教会は,福山天主公教会の表札を掲げ,福山は小教区として独立,備中・備後の拠点となった。場所は,現在の福山市東町2丁目3-40(本願寺備後会館前)[パリミッション会の記録]
1896 福山教会で受洗者あり
玉島と福田新田(現在の水島)は福山小教区から岡山教区の管轄になる。
1899 山野教会は13年間地域社会に貢献したが,授産場としての奉仕が行き詰まり廃止される
1911    8・ 8 パリミッション会,アメイ神父による洗礼を最後に,1942年まで洗礼台帳はなく,福山教会は玉島教会に併合のため空白
1912 福山教会は廃止され玉島教会に併合されたため,レイ神父は福山から玉島に移り,福山を巡回
1921 福山の信徒数は4家族のみ(7・8名)で布教は困難になる
[レイ神父の報告書]
1922 広島教区が代牧司教区として発足,教区長はデーリング大司教が就任
1924 倉敷教会設立
クリシェル神父が玉島に着任,福山を巡回
篠原顧六伝道師が神父を助け布教に活躍。川口町山田宅でミサがささげられていた
1925 福山教会信徒数 13名
1928 ~ 1943 広島教区教区長 ロス司教
1931 ~ 1933 福山市三之丸町両備駅の東,久武シカ伝道師宅で巡回ミサ
1932 ブリンゲル神父玉島教会助任司祭として着任,クリシェル神父とともに福山を巡回
1934 ブリンゲル神父玉島教会主任司祭となる
1940 尾道教会が独立し,福山は尾道教区となる。ハマエル神父が尾道に着任し,福山を巡回
荻原晃神父(イエズス会)教区長に就任
1941 イエズス会マイエル神父により東町花木静山宅に教会をつくる
1942    7・14 現在の洗礼台帳による受洗第1号,長島総一郎の洗礼式
1945 東町の教会で呉教会主任司祭真田神父により堅信式
信徒数約10人

1895~1912 福山教会司牧司祭(パリミッション会より派遣された司祭)

ムツ神父     ~1895
ファージェ神父   1895
フェラン神父    1896
レイ神父     1897~1899
ロラン神父  1899~1911
レイ神父   1911~1912

カトリック福山教会の戦後のあゆみ(暁の星学院とともに)

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